●●●作家の旧居●●●
【森鴎外旧居】
森家は津和野藩主亀井家に使えた典医でした。
森鴎外は明治32年6月に陸軍第12師団軍医部長として小倉に着任し、明治35年3月
第一師団へと帰郷するまでの2年9ヶ月の間、小倉のために教育問題や衛生問題など文化活動
に大きな功績を残してくれました。
この期間にも多くの書物や翻訳などもこなしており、後の北九州の文化の基盤をつくった
人物だといわれています。
この建物は小倉北区鍛治町にある独身時代の住まいで、庭に植えられている夾竹桃と百日紅
も当時のものです。
「小倉日記」、そして三部作の「鶏」、「独身」、「二人の友」は小倉時代を思い起こして
書かれている作品です。
【火野葦平旧居】
明治39年に玉井勝則(本名)は長男として生まれ、若松尋常小学校から小倉中学へと進み、
高校大学時代は文学三昧の生活を送りました。
そして志願した幹部候補生除隊後大学を中退し、故郷若松で父のあとを継ぎます。
昭和13年、「糞尿譚」で第6回芥川賞を受賞したときは中国杭州の戦地にいました。
その後も軍報道部として発表された「麦と兵隊」、「土と兵隊」、「花と兵隊」の兵隊3部作
がベストセラーとなりました。
父親の玉井金五郎は、1,000円で1軒の家が建つといわれたこの時代、葦平の印税で
1万1千円もの豪邸を建てました。
ですが葦平は戦友のことを想い、この豪邸の横に粗末な自分用の部屋を建て増しして使って
いたとのことです。
戦犯作家としてこのことをずっと思い悩んでいたのか、昭和35年1月24日、2階の自分の
書斎で突然自ら命を絶ちました。享年53歳。
【櫓山荘跡】
櫓山荘とは大阪の実業家である橋本豊次郎が大正9年に建てた、回遊式庭園や石で作った
屋外舞台を供えた洋風建築です。
大正から昭和初期にかけ、文化人のサロンとして親しまれていました。
ここでは現在、全国女流俳句大会も行われております。